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東京地方裁判所 昭和30年(ワ)2005号 判決

原告 広瀬千香 外一名

被告 株式会社日刊スポーツ印刷社

主文

原告(反訴被告)広瀬千香と被告(反訴原告)との間で、別紙目録記載の建物部分につき、原告(反訴被告)広瀬千香が被告(反訴原告)に対し賃料一ケ月金八三〇円、期間の定めのない賃借権を有することを確認する。

被告(反訴原告)は原告(反訴被告)広瀬千香に対し金二〇〇、〇〇〇円を、原告(反訴被告)近藤録郎に対し金一〇〇、〇〇〇円を支払え。

原告(反訴被告)等のその余の各請求を棄却する。

被告(反訴原告)の反訴請求はいずれもこれを棄却する。

訴訟費用は本訴および反訴を通じ全部被告(反訴原告)の負担とする。

事実

原告等(反訴被告等)(以下単に原告等と略称する)は、本訴につき「原告等と被告との間で別紙目録記載の建物部分につき原告広瀬千香が被告に対し賃料一ケ月金八三〇円期間の定めのない賃借権を有することを確認する」および「被告(反訴原告)(以下単に被告と略称する)は原告等に対し、それぞれ昭和二八年一月一日から昭和三〇年二月一五日までは月金一五、〇〇〇円の、同月一六日からは月金一〇、〇〇〇円の割合による金員を支払え。本訴費用は被告の負担とする。」との判決ならびに金員の支払を求める部分につき仮執行の宣言を求め、反訴につき、主文第四項同旨の判決および「反訴費用は被告の負担とする。」との判決を求め、本訴の請求原因および反訴の答弁として、

「(一) 原告等は内縁の夫婦であつて、原告広瀬は著述を業とし、原告近藤は商業図案作成を業とするものであり、被告は訴外株式会社日刊スポーツ新聞社の委託による日刊紙日刊スポーツ」の印刷を主たる業務とし、かたわら外註印刷物の印刷を業としているものである。

(二) 原告広瀬は、昭和一〇年九月三〇日に別紙目録記載の約三坪の建物部分を訴外相馬久吉から、居住の目的で期限の定めなく敷金八六四円、賃料一ケ月八三〇円、月末払の約定で賃借し、その後、右相馬は右建物部分を含む別紙目録記載の鉄筋コンクリート造陸屋根四階建住家一棟の建物を訴外山崎重工業株式会社に売り渡し、右訴外会社は昭和二七年一一月二九日にさらにこれを被告に売り渡した。したがつて、被告は同日原告広瀬に対し右約定による賃貸人としての権利義務を承継し、原告広瀬は右約定による賃借権を被告に対して取得した。

(三) 右訴外会社所有当時右鉄筋コンクリート造の建物は、その一階の店舗むき貸室を除いては二階ないし四階にわたりその殆んどをアパートとして部屋貸しされ、そこに居住するものの世帯数は約二五世帯、その家族総員は約七十余名におよんでいたものであり、原告等もその当時から右建物内の前記建物部分第二八号室をそこに電話まで架設してこれを住居として使用し、前記業務を営みつづけているものである。

(四) 被告は、賃貸人として原告等に対し右建物部分を使用させねばならない立場にあるにかゝわらず、無謀にも右建物内に新聞印刷のための工場を設置しようとし、昭和二七年一二月初旬頃原告等居住者に対し賃借権を無視して各室の明渡を迫るとともに、一階に四五馬力モーターつき新聞印刷用高速度輪転機一台を、二階の本件建物部分のすぐ隣に活字鋳造機三台および紙型製造機を備えつけること等によつて、右建物内に印刷工場をつくり、昭和二八年一月一日から日刊新聞「日刊スポーツ」の印刷を開始し、日夜その操業を続け、昭和三〇年二月一六日にいたつて前記活字鋳造機三台を他の場所に移動設置したが、同月一四日に本件建物部分の真下に当る一階入口に新聞印刷用の巻取紙の搬入口を設け、また本件建物部分にいたる階段の下に印刷用インキのタンクを取り付けるとともに、同年八月中旬頃から一階に既設の右輪転機のほかに、新に五〇馬力モーターつき新聞印刷用高速度輪転機一台を備えつけ連日にわたる試運転の末同年九月一日からこれの運転をも開始し、日夜印刷事業の操業を続け、右操業から生ずる騒音震動、悪臭により原告等は日々住居の静穏を侵されて著しく苦痛を蒙つている。すなわち、毎日まず午前九時に活字鋳造機の運転が開始され騒音と震動とが連続して午後八時頃まで続き、また鉛が溶けるときに生ずる有毒ガスが悪臭とともに本件建物部分である二八号室に入つてき、正午頃からは紙型作業が始まり、その騒音は断続しながら午後一二時頃まで続き、午後三時頃から第一版新聞の印刷が始まつて輪転機の運転が開始されそれが騒音と震動を伝え、これは継続しながら午後一一時から時には翌日の午前一時頃まで続き、その間従業員の罵声、新聞輸送用の大型トラツクオート三輪車の発着の音響、巻取紙の運搬これの輪転機への取付の音響、印刷用インキのタンクについたモーターの運転による震動等がすさまじく、昭和二八年中における本件建物部分二八号室の音量は八〇ホンから九〇ホンを示し、これらの騒音、震動、悪臭により、原告等はその住居の静穏を侵され、そのため原告等は室内据付のラヂオの聴取の困難を覚えるばかりでなく、常時睡眠不足、神経衰弱ぎみであり、頭痛を覚え、嘔吐を催し、食欲不振に陥り、心悸昂進症を呈し、かつ思考を妨げられるため仕事が殆んど不可能であり、これらによる原告等の精神的身体的苦痛は測りがたいものがある。

(五) ところで、被告は右の印刷工場において、原動機により運転する印刷機械を用い、著しい騒音を発し公害を生ずるおそれのある印刷事業を行つているものであるから、右工場の設備につき、騒音の防止上適当な措置を講ずべき義務があり、右措置を講ずることを条件に東京都知事から工場設置計画の認可をうけたものであるのに、これの履行を怠つたまま印刷事業を行つているものであるばかりでなく、右建物の居住者達との間で立退の話合ができてないにもかかわらず、これができているかのようにいつわつて申告をなした結果右の認可をえたものであり、なお右工場においては日刊紙以外のものの印刷をすることができないのに週刊紙の印刷をも行つているものであり、しかも、前記操業から生ずる騒音、震動、悪臭は前記のとおり原告等が社会生活上受認すべきであると考えられる範囲をはるかに超えるものであるから、右印刷工場の設置および右印刷事業の操業は違法であり、被告はこれらのことを充分に認識しながら原告広瀬の前記賃借権を無視し敢て右操業を強行しているものである。

(六) 以上のとおり、原告等は、被告により別紙目録記載の建物部分についての原告広瀬の被告に対する右賃借権を無視されているばかりでなく、被告の故意による不法行為によつて違法に精神的身体的苦痛を蒙つているものであるから、被告に対しそれぞれ慰藉料を請求することができ、その額は、右不法行為の程度、態容にかんがみ、少くとも被告が右操業を開始したる昭和二八年一月一日から昭和三〇年二月一五日まではそれぞれ一ケ月につき金一五、〇〇〇円の割合による金額をもつて、前記活字鋳造機三台の移動設置のあつた同月一六日から右操業の停止にいたるまではそれぞれ一ケ月につき金一〇、〇〇〇円の割合による金額をもつて相当と考える。それゆえ、原告等は右賃借権の確認と右慰藉料の支払を求める。」と述べ、

被告の主張事実に対し、

「(1) は認める、(2) のうち、被告がその主張の日時頃から居住者達に対し立退の交渉を開始したとの点は認めるが、右交渉にいたる経緯は不知、その他は否認する、(3) ないし(6) はいずれも争う。

被告は正当事由に基く解約を主張するが、原告等はすでに本件建物部分に長年住みつき、ここにおける生業の地盤によつて生活をたてているものであつて、被告はこのことをよく知りながら、前記のとおり本件建物を譲り受け、その新所有者として、右建物内に印刷工場を設置するとともに、原告等居住者を右建物内から立ち退かせることによつて右工場の拡張をはからんとしているものであつて、このこと自体によつても被告主張の解約申入についての正当事由の存在しないことが明らかである。しかも本訴請求原因で陳べたとおり、被告は日々自ら原告等に対し不法行為をなしつゝあるものでありながら、自己所有の必要等をとなえて正当事由による解約と称し、原告等に対し本件建物部分の明渡を迫るが如きは逆に権利の濫用と目さるべきものであつて、この一事をもつてしても被告に解約の正当事由があるといえないことが極めて明らかである。」と述べた。

被告訴訟代理人は、本訴につき、「原告等の本訴請求を棄却する。本訴費用は原告等の負担とする。」との判決を求め、反訴につき、「原告等は被告に対し別紙目録記載の建物部分を明け渡せ。反訴費用は原告等の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、原告主張の請求原因事実に対し、

「(一)のうち、被告が原告等主張のような業務をなしていることは認めるが、その余は不知、(二)のうち、昭和二七年一二月に被告が原告等主張の建物をその主張のよりに訴外山崎重工業株式会社から買い受けたことは認めるが、その余は不知、(三)のうち、原告等がその主張の建物部分に電話を架設してこれを占有していることは認めるが、その余は不知、(四)のうち、被告が、昭和二七年一二月初旬頃原告等主張のように居住者達に対して明渡の通知をなしたこと、その頃原告等主張のような機械をその主張の個所に備えつけ昭和二八年一月一日から現在にいたるまで日刊新聞「日刊スポーツ」の印刷事業の操業を続けていること、原告等主張のような活字鋳造機三台を他の場所に移動設置したこと、昭和三〇年八月中旬頃輪転機一台を新たに設置したことはいずれもこれを認めるが、その余は否認する、(五)は否認する、(六)は争う。

被告は、その印刷事業の操業から生ずる騒音等を防止するために適当な措置をとつており、右騒音等は原告等に損害を与える程度のものではない。

仮に右騒音等により原告等の生活の静穏が妨げられているとしても、後記(1) ないし(5) のとおり、原告広瀬と被告との間の別紙目録記載の本件建物部分についての賃貸借契約はすでに終了しているのであるから、その終了後は被告の操業が違法に原告等の住居の静穏を妨害しているといわれるべき筋合は全くなく、右騒音等の原告等の住居への侵入は違法性を欠く。

仮りに右騒音等が原告等に損害を与える程度のものであるとしても、後記(4) のとおり、原告広瀬は昭和二八年三月六日頃明朗荘に移転することを承諾しながら、これに移転することなく現在に至つているものであつて、原告等は右騒音等を避けうるにかゝわらず敢て右建物部分に居住しているものであるから、自ら右騒音等に甘んじているものであり、これを受忍すべきことは当然であるから、昭和二八年三月上旬以降における右騒音等の原告広瀬の住居への侵入は違法性をかき、原告等は本訴損害賠償の請求をなしえない。少くともその損害の発生につき原告等に重大な過失がある。

以上いずれの理由からしても原告等の本訴請求は失当である。」と述べ、反訴の請求原因および本訴の答弁として、

「(1)  被告は昭和二七年一一月二九日訴外山崎重工業株式会社から、別紙目録記載の鉄筋コンクリート造陸屋根四階建住家一棟の建物を買いうけ現にその所有者である。

(2)  ところで、右建物の売買につき、右訴外会社の責任において昭和二七年九月末日までに右建物の一、二階の居住者を立ち退かしめる旨の取決が売買当事者間になされていたが、右訴外会社が右取決の履行をなさないため、やむをえず被告は同年一二月初旬頃よりその居住者等に対し立退きの交渉を開始するにいたり、原告広瀬に対しても同年一二月二四日発送、翌二五日到達の内容証明郵便で本件建物部分の賃貸借契約の解約を六ケ月の法定期間を存して通告し、あわせて右解約に伴う立退きにつき話合を進めたところ、原告広瀬は同年一二月中近所に家を探してもらえば本件建物部分を明け渡す旨諒承した。

(3)  本件建物内には訴外株式会社日刊スポーツ新聞社があり、これは被告とその代表者を同じくするいわゆる被告の姉妹会社であつて、被告は主として同新聞社の新聞の印刷をその事業としているものであるが、戦後スポーツの発展は加速度的に興隆し、スポーツ関係の日刊紙として第一流である右新聞社の「日刊スポーツ」の紙数の増加に伴い被告会社の事業も必然的な拡張を要求せられるにいたつた。しかるに、被告会社は、本件建物のうち、一階の一部約四五、九坪、二階の一部約三六、三坪、三階の一部約九、六坪、四階の一部約一坪を使用しているにすぎず、また右訴外新聞社は一階の一部約二二、六坪を使用しているにすぎず、被告会社にとつてこの狭い使用部分では事業の拡張はもとより円滑な事業の遂行も不可能な状態にあり、それゆえ、被告会社は、原告等が占有使用している建物部分を含めて他に使用させている建物部分を回収して被告会社の事業場に充当するのほかなき切実な必要に迫られている。

(4)  被告は、原告広瀬から前記のような諒解をえたので、鋭意同原告の移転先を探し、東京都中央区明石町一六番地所在の明朗荘の七九号室なる六畳間を同原告に紹介したところ、同原告からこの部屋なら移転してもいいとの承諾をえたので、同室賃借に関する権利金一二万円を昭和二八年三月六日に、賃料金一、五〇〇円を同年三月分より継続して(これは昭和二九年一月分より値上になり一ケ月金一、七〇〇円の割合となる)同原告のために立替支払つて現在におよんでおり、現在なおその支払を継続中である。このほか同室の賃借のため今日までに要した金員は、昭和二八年三月分からの水道ガス電気代金ならびに右賃借の仲介料金一二、〇〇〇円をも含めてすでに合計金二〇数万円に達する。しかるに原告広瀬は言を左右にして同室へ移転せず、莫大な移転料を得ようと目論んでいるものである。

(5)  原告広瀬は前記(2) のとおり昭和二七年一二月中に本件建物部分を明け渡すことを諒承することにより右建物部分の賃借権を放棄したものであり、仮にそうでなくても前記(4) のとおり昭和二八年三月六日右建物部分から移転することの承諾をなすことにより右建物部分の賃借権を放棄したものであり、これらによつて本件賃貸借は終了した。仮にそうでなくても被告は前記(3) の事実に基く正当の事由により前記(2) のとおり昭和二七年一二月二五日原告広瀬に対し本件賃貸借契約の解約の申入をしたものであるから、そのご六ケ月を経過した昭和二八年六月二五日をもつて本件賃貸借契約は終了した。

原告近藤は何らの権限なく本件建物部分を占有しているものである。

(6)  以上の理由により、被告は原告等に対し本件建物部分の引渡を求める。」と述べた。

立証として、原告等訴訟代理人は、甲第一ないし第一八号証、第一九号証の一ないし六、第二〇号証の一ないし三〇、第二一ないし第三三号証、第三四号証の一ないし一五を提出し、証人斎藤昌三、西田広志(一、二回)、中井新一郎の各証言、原告広瀬千香本人尋問、原告近藤録郎本人尋問(一、二、三回)、検証(一、二回)、鑑定の各結果を援用し、乙第一号証の成立は認める、第八号証の一ないし六が本件建物内部の写真であることは認める、その他の乙号各証の成立は不知、なお乙第八号証の一ないし六を援用する、と述べ、被告訴訟代理人は、乙第一ないし第五号証、第六号証の一ないし一〇、第七号証、第八号証の一ないし六、第九、一〇号証の各一、二、第一一ないし第一四号証を提出し、証人中山参吉、岡村英夫(一、二回)、竹内久男、小池マサ、亀谷富代、河合勇の各証言と検証(一、二回)、鑑定の各結果を援用し、甲第一、二号証、第四号証、第六号証、第一六ないし第一八号証、第一九号証の一ないし六、第二二号証、第二四号証、第二八号証、第三一ないし第三三号証の成立は認めるが、その他の甲号各証の成立は不知、と述べた。

理由

まず本訴について判断する。

原告広瀬千香本人尋問の結果および原告近藤録郎本人尋問(一回)の結果とこれによつてその成立を認めうる甲第一一ないし第一三号証によると、原告広瀬は著述を業とし、原告近藤は商業図案作成を業とするものであることが認められ、被告が訴外株式会社日刊スポーツ新聞社の委託による日刊紙「日刊スポーツ」の印刷を主たる業とし、かたわら外註印刷物の印刷を業とするものであることは、当事者間に争がない。

成立に争のない甲第一、二号証、原告広瀬千香本人尋問の結果とこれによつてその成立を認めうる甲第三号証によると、原告広瀬は終戦前、別紙目録記載の建物部分を訴外相馬久吉から居住の目的で期限の定めなく賃借しこれの引渡を受けたが、右相馬は昭和二三年五月三一日頃、右建物部分を含む別紙目録記載の建物を訴外山崎重工業株式会社に売り渡したので、同原告は同訴外会社との間で右建物部分につき賃料一ケ月金八三〇円月末払の約定で賃貸借契約を続けていたことを認めることができ、これに反する証拠はなく、また成立に争のない甲第一八号証と原告広瀬千香本人尋問の結果によると、原告近藤は、昭和二〇年九月一五日頃から右建物部分に居住するようになり、その頃から原告広瀬と同棲し、その事実上の夫として同原告と内縁関係をつづけているものであることが認められ、被告が昭和二七年一一月二九日前記訴外会社から別紙目録記載の本件建物を買い受けたことは当事者間に争がない。

右事実からすると、右建物部分につき、原告広瀬は同日被告に対し前記約定による内容をもつ賃借権を取得したものであり、原告近藤は同日被告に対し原告広瀬の内縁の夫として右賃借権を援用しうるにいたつたものであることを肯認することができるがそれはあくまで広瀬の有する賃借権のいわば反射的効果を受けるに過ぎないから、原告近藤が自ら進んで原告広瀬と被告との間の賃借権確認を訴求する法律上の利益はないものといわねばならない。

証人西田広志の証言(一回)とこれによつてその成立を認めうる甲第七号証、成立に争のない乙第一号証、証人岡村英夫(一回)中山参吉の各証言、原告広瀬千香本人尋問の結果によると、同訴外会社が右建物を被告に売り渡す当時、右建物はその一階の一部に同訴外会社の事務所と店舗とがあり、二階の一部に同訴外会社の事務所があるほか、二階ないし四階はすべて住宅むき貸室すなわちアパートとして部屋貸しされており、原告広瀬を含めて右建物内に居住するものの世帯数は約二五世帯におよんでいたものであり、被告がこれらのことを承知して右建物を買いうけたこと、原告等はその頃前記建物部分たる二八号室を住居として使用し、そこで前述の各業務を営んでいるものであることを認めることができ、これを覆えすに足りる証拠はない。

ところで、被告が右建物の一階に、四五馬力モーターつき新聞印刷用高速度輪転機一台を、二階の本件建物部分の隣に活字鋳造機三台および紙型製造機を備えつけ、昭和二八年一月一日から日刊紙「日刊スポーツ」の印刷を開始してその操業を続けたことは当事者間に争がなく、証人岡村英夫(二回)、西田広志(二回)の各証言、原告近藤録郎本人尋問(二回)の結果、検証(二回)の結果によると、被告が昭和三〇年二月一六日頃前記活字鋳造機三台を二階から四階へ移動設置し(その頃右鋳造機三台を他へ移動設置したことは当事者間に争がない。)、同月頃に本件建物部分二八号室の階下に当る一階入口に新聞印刷用の巻取紙の取入口を設け、同室への階段の下の部分に印刷用インキを入れたタンクを取りつけ、昭和三〇年八月中旬頃一階に既設の前記輪転機の外に新たに新聞印刷用高速度輪転機一台を備えつけ(その頃同輪転機一台を新たに設置したことは当事者間に争がない)、同年九月一日からこれの運転をも開始し、これらの諸設備を使用して被告が新聞印刷事業の操業を続けていることを認めることができ、これに反する証拠はない。

さらに、証人西田広志(一回)の証言とこれによつてその成立を認めうる甲第五号証、第七ないし第一〇号証、第二三号証、成立に争のない甲第六号証、原告近藤録郎本人尋問(一回)の結果とこれによつてその成立を認めうる甲第二一号証、成立に争のない甲第二二号証、第二四号証、証人西田広志(二回)の証言とこれによつてその成立を認めうる甲第二五ないし第二七号証、第二九、三〇号証、成立に争のない甲第二八号証、第三二、三三号証ならびに証人中井新一郎、斎藤昌三、中山参吉、岡村英夫(第一、二回)の各証言、原告広瀬千香本人尋問、原告近藤録郎本人尋問(二、三回)、鑑定、検証(一、二回)の各結果を綜合すると、本件建物内において、毎日、まず午前九時頃に活字鋳造機の運転が開始されてこれが連続して午後八時頃まで続き、また午後三時頃から輪転機の運転が始まり、断続しながら翌日の午前零時ないし午前二時頃までおよぶこと、これらの機械はその運転中に騒音と震動を周囲につたえるものであつて、前説示のとおり、昭和二八年一月一日頃から昭和三〇年二月一六日頃までは一階に前記輪転機一台、二階には前記活字鋳造機三台が据えつけられていたこと、しかも、右鋳造機三台据えつけの位置は本件建物部分二八号室のすぐ隣であつてその間厚さ四粍のベニヤ板で仕切られていただけであつたこと等により、これらの機械の運転中の右室内における騒音は平均七五ホンの音量を示していたこと、前同様右室内における震動は、このため通常人が安眠することのできない程度のものであつたこと、同日以後は右三台の鋳造機が四階へ移され、また同年九月以後は輪転機一台が一階に設置される等の変更があつたため、その変更の後は同室内における騒音の音量は減じたが、同室内における震動はなおはげしく、その震動は、これにより通常人が安眠するのを妨げられる程度のものであることを認定することができ、証人亀谷富代の証言中右認定に反する部分は信用することができず、他にこれを覆えすに足りる証拠はない。なお前掲各証拠によると、印刷機械から生ずる臭気が時折右二八号室において感じられることが窺われるが、その臭気の程度につきこれを認めさせるに足りる的確な証拠がなく、また前記印刷事業の操業に従事する被告会社の従業員の音声、新聞運送用のトラツク等の発着、巻取紙の運搬等による音響が、昭和三〇年二月以後右二八号室における生活の静穏をみだしていることは認められるのであるが、これまたその程度につきこれを認めさせるに足りる的確な証拠がない。

以上の次第で、右操業から生じる鋳造機、輪転機の運転による右騒音、右震動、および右臭気、右音響が原告等の生活の静穏を侵害していることは明らかであるが、かかる侵害も社会生活上一般に受忍されるべきだと考えられる範囲において違法性を欠くと思われるから、前記の侵害が果して一般社会生活上、被害者の受忍の程度を超えているものかどうかについてさらに判断しよう。

証人中井新一郎の証言によると、本件建物の所在地は商業地域に属することが認められ、東京都の騒音防止に関する条例(昭和二九年東京都条例第一号)には、商業地域における音量の基準は音源の周辺の建物の境界線において、午前八時から午後七時までは六〇ホン、午前六時から午前八時までおよび午後七時から午後一一時までは五五ホンと定められているから、前記平均七五ホンの騒音は右基準をはるかに超えており、かつ成立に争のない甲第六号証および鑑定の結果によると、七五ホンの音量とは、たとえば最もやかましい繁華街の店の音、自動車の走る音という風に表現しうる程度のものであつて電話の受話機の標準音量となつているものであることがわかり、右各証拠に原告広瀬千香本人尋問の結果をあわせ考えると、右音量はラジオの聴取を殆んど不能にさせる程度のものであることが推認でき、これらのことから考えると、住居内において平均七五ホンの音量をもつ騒音の同住居への侵入は、社会生活上受忍すべきであると思われる範囲を超えているとみられるべきものであり、また、前記震動は、前認定のとおり通常人の安眠を不能にし、またはこれを妨げる程度のものであるからかかる震動の住居への伝導は、前同様社会生活上受忍すべきであると思われる範囲を超えているとみられるべきものである。また、前記臭気および前記従業員の音声、トラツクの発着、巻取紙の運搬等による音響については、前述したとおり、その程度を認めるに足りる証拠がないから、これらによる生活の妨害が違法である旨の原告等の主張は、この点においてすでに理由がなく排斥を免れない。原告等は、なお、右工場の設置計画の認可に付された適切な騒音防止設備の整備という条件を被告が履行していないこと、右認可をうけるについて被告がいつわつた申告をしたこと、および日刊紙以外のものを被告が印刷していることの違法性を縷々主張するが、これらのことは、たとえそれが事実であつても、それが行政的見地からの取締の問題になるのは格別、特段の事情が認められない本件にあつてはそのことが直ちに原告等に対して向けられた違法な行為を構成するとは到底解されないから、右の主張は当を得ない。

進んで昭和二七年一二月原告広瀬の賃借権の抛棄により本件建物部分の賃借権が終了したから、右違法性を欠く旨の被告の主張につき考えるに、証人竹内久男、中山参吉の各証言によると、その頃被告会社役員岡村英夫、中山参吉らが原告等方に赴き本件建物部分の明渡の交渉をなしたことはこれを認めることができるのであるが、その頃原告広瀬が右建物部分を明け渡すことを諒承してその賃借権を抛棄したことを認めさせるに足りる証拠がないから、右主張はその余の判断をなすまでもなく理由がない。

次に昭和二八年三月六日頃原告広瀬の賃借権の抛棄により本件建物部分の賃貸借が終了したから右違法性を欠く旨の被告の主張について考える。証人小池マサの証言とこれによつてその成立を認めうる乙第三ないし第五号証、第六号証の一ないし一〇、第七号証、証人中山参吉の証言とこれによつてその成立を認めうる乙第九、一〇号証の各一、二、第一一ないし第一三号証、成立に争のない甲第一六、一七号証、証人竹内久男、岡村英夫(一回)の各証言、原告広瀬本人尋問および検証(二回)各結果によると、被告は、その頃、原告広瀬から適当な移転先があればとの諒解をえたので、鋭意これを探した結果、東京都中央区明石町一六番地所在の明朗荘なるアパートの二階の七九号室(ガス、水道、電灯つき六畳間)を見つけたので、昭和二八年三月六日頃ここに同原告を案内し右室を紹介したところ、同原告から右室については一応気に入つた旨の返事をえたので、直ちに同原告のため右室の賃貸人訴外小池忠造に対し右室賃借のための権利金一二万円を支払つてこれを賃借するとともに、同原告と右室への移転につき交渉をなし、その結果、被告の負担において右室の畳、建具を新しくすること、電話移転架設費用およびその他の同原告が引越に要する費用を被告において負担することについては被告はこれを諒承したのであるが、同原告からの立退料名義の金三〇万円の支払の要求についてはこれを肯んじなかつたこと、それゆえ、結局原告広瀬と被告との間で、同原告が右室へ移転することについての話合がつかず、そのため同原告が右の移転を承諾しないこと、しかし被告は、なお右移転についてのその後の同原告との交渉に期待をかけ、一方同原告から本件建物部分の賃料を引き続き昭和二八年一〇月分まで異議なく受け取るとともに、他方同年三月分から現在までの右室の賃料(同月分から同年五月分までは一ケ月金一、三二〇円の、同年六月分から同年一二月分までは一ケ月金一、五〇〇円の、昭和二九年一月分からは一ケ月金一、七〇〇円の各割合による賃料)および同室に設置されている電灯、水道、ガスの各最低料金の支払を継続して右室を同原告のため引き続き賃借し、これを同原告に提供しているものであることを認定することができ、これを覆えすに足りる証拠はない。

右事実からすると、原告広瀬が昭和二八年三月六日頃本件建物部分を明け渡すことを承諾しこれらの賃借権を抛棄したといえないことが明らかであり、他にこのことを認めさせるに足りる証拠がないから、被告の右主張はその前提を欠き排斥を免れない。

次に本件建物部分の賃貸借は正当事由に基く解約申入により終了したから、前記違法性を欠く旨の被告の主張について判断しよう。

成立に争のない乙第一号証、甲第四号証、証人中山参吉、岡村英夫(一回)、河合勇の各証言によると、被告は、その姉妹会社たる訴外日刊スポーツ新聞社の日刊紙「日刊スポーツ」の印刷のため設立された会社で、本件建物を訴外山崎重工業株式会社から買い受けるに際し、前記のとおり、原告広瀬その他の居住者達が右建物内の各室を賃借してこれに居住していることを承知していたものであるが、右建物の一、二階の居住者の明渡につき責任をもつとの同訴外会社の言を信じ、右建物内に被告の印刷工場を設置する目的で、前説示のようにこれを買いうけたものであるところ、原告広瀬その他の居住者らが右各室の明渡を容易に肯じないので、被告会社自らこれらのものに対し明渡の交渉をはじめ、かつ、同原告に対し昭和二八年一二月二五日到達の内容証明郵便で自己使用の必要を理由として本件建物部分の賃貸借契約の解約を六ケ月の期間を存して通知したことを認めることができ、そのごなお同原告に対して右明渡の交渉を重ね、前記明朗荘七九号室を同原告に提供していることは前認定のとおりであり、右建物に印刷工場を設置して印刷業の操業を続けていることも前記説示のとおりである。また、証人中山参吉、岡村英夫(一、二回)河合勇の各証言と、それが本件建物の内部の写真であることが当事者間に争のない乙第八号証の一ないし六、証人西田広志(二回)の証言とこれによつてその成立を認めうる甲第二六号証、検証(一、二回)の結果によると、被告は、右建物内に前記訴外日刊スポーツ新聞社と同居しており、右建物内の前記約二五世帯の居住者達は被告との話合に基き昭和二八年一月頃から現在までの間に順次他へ移転したが、現在なお原告等を含めて約六世帯のものが居住している状態にあるところ、近時右新聞の増ページ、紙数の増加に伴い、被告はその事業を拡張し、その事業場を拡大する必要に迫まられ、そのため原告等が居住している本件建物部分もこれを回収して使用する必要があることが認められ、これを覆えすに足りる証拠はない。

他面、原告広瀬が終戦前から本件建物部分二八号室を賃借してこれを住居として使用し、原告近藤とともに右室で前記業務に従事しながら、その生活を営んでいること、本件建物は昭和二七年一一月当時は主としてアパートとして使用されていたが、その後ここに被告の印刷工場が設置されたこと被告の印刷事業の操業により原告等がその生活の静穏をみだされていること、原告広瀬が被告からその移転先として前記明朗荘を紹介されこれを提供されていることはいずれも前記のとおりであるところ、原告広瀬千香本人尋問の結果と検証(二回)の結果によると、前記明朗荘七九号室は前記の設備と広さをもち、本件建物部分に比してさしてみおとりするものではないが、右建物部分に比して都営電車の利用が不便なこと、原告広瀬が右の不便と営業上の地盤を失うことを理由に右室への移転を拒否していることを認めることができ、これに反する証拠はない。

右各事実からすると、一方被告にはその事業を拡張するため本件建物部分を使用する必要があることがわかり、またそのため原告広瀬の移転先を提供する等原告等の居住先を確保することに力を尽していることが充分にわかり、他方原告広瀬も本件建物部分に居住することを特に必要とするものではなく、多少の不便を忍べば前記騒音等から逃れて他へ移転できるものであることがわかるのであるが、他面、被告は本件建物を買いとるに当り、右建物には賃借人たる原告広瀬その他の居住者達が住んでいることをよく知りながら、かつ、これらのものの右建物からの立退なくして被告が右建物内に印刷工場を設置して印刷事業を行うときは、これが操業につき事業場の拡張の困難のみならずその他の種々の困難がおこつてくるであろうことは当時の住生活事情から当然予想されるところであるのに、被告は売主の言を軽信し、敢て印刷工場設置の目的をもつて右建物を買いとつたものであることがわかり、被告が特に右建物を買わねばならなかつた事情については何等の立証がなく、また原告広瀬との明渡の話合がつかず、同原告の他にも当時約二四世帯ばかりのものがなお右建物内に居住していたにもかかわらず、被告が、右建物の買取後直ちに、右建物内に印刷工場を設置して印刷事業をはじめ、それ以後、原告等の生活の静穏をみだしてきたことがわかる。

ところで、借家人が居住していることを知りながら家屋を買い受けたものでも正当の事由があれば借家人に対して解約ができるのは勿論のことであるけれども、右のような事情の下において本件建物を買い受け、右のような事情の下にその事業を行つている被告は、なお、わずかな不便であれ、これを被告に強いることができないものというのほかなく、したがつて、被告のなした解約申入はその正当の事由を欠くものであつて、これにより被告は本件建物部分の賃貸借を終了させることができないものといわねばならない。それ故、被告の前記主張もまたその前提を欠き、排斥を免がれない。

被告はさらに原告等が前記騒音等を受忍すべき旨および原告等には右騒音等による損害の発生につき重過失がある旨主張するが、原告広瀬が明朗荘に移転することを承諾したと認められないことは前述のとおりであり、同原告が本件建物部分につき被告に対する賃借権を有することが前述のとおりである以上、右建物部分から右明朗荘に移転するかどうかは同原告の自由に決しうるところであつて、右建物部分にとどまるかぎり、右騒音等を受忍しなければならないという法律上の義務を原告等に課することはできないから、被告の右各主張はいずれもその理由がなく採用できない。もつとも原告近藤は賃借権を有しないが、前認定の通り原告広瀬の有する賃借権を援用し得る立場にある限り、原告近藤も被告の不法行為に基く損害の賠償を求める権利のあることは明かである。

そこで前記騒音および震動の住居への侵入および伝導に基く原告等の生活の静穏の妨害により原告等が蒙つた損害について考える。証人西田広志(一回)の証言とこれによつてその成立を認めうる甲第七ないし第一〇号証、第二三号証、証人西田広志(二回)の証言とこれによつてその成立を認めうる甲第二六、二七号証、第二九号証、証人斎藤昌三の証言、検証(一、二回)、鑑定、原告広瀬千香本人尋問、原告近藤録郎(一、二回)本人尋問の各結果を綜合すると、右騒音、震動により原告等が昭和二八年以後今日に至るまで常時その住居の静穏をみだされ、その安眠を妨害され、その精神の安定、その思考の統一等を妨げられていること、そのため原告等の仕事の能率も阻害されている状態にあること、これらのことによつて、原告等が精神的身体的苦痛を蒙つていることを充分に認めることができ、証人亀谷富代の証言も右認定を左右することができず、他にこれを覆えすに足りる証拠がない。

そうすると、被告には原告等に対し、本件口頭弁論終結にいたるまでに原告等が蒙つた右精神的身体的苦痛に対する慰藉料を支払うべき義務があるというべきところ、さきに説示した原告等の職業、被告の業務の種類、原告等の本件建物部分を占有するにいたつた経緯およびその占有権限の内容、ならびに原告等に対する本件不法行為の程度および態容等を考慮し、原告等の蒙つた苦痛の程度等を勘案するとき、その額は原告広瀬に対しては金二〇万円、原告近藤に対しては金一〇万円を以て相当と考えられる。

以上の次第で、原告等の本訴請求は、原告広瀬のなす本件建物部分に対する原告広瀬の前記内容をもつ賃借権の確認、および原告広瀬に対し金二〇万円、原告近藤に対し金一〇万円の支払を求める限度において正当としてこれを認容すべきであるが、その余は失当としてこれを棄却すべきである。

次に被告の反訴について判断するのに、原告広瀬が昭和二七年一二月頃に本件建物部分の賃借権を抛棄したこと、同原告が昭和二八年三月六日頃右建物部分の賃借権を抛棄したこと、および同原告に対する解約申入により本件賃貸借が終了したことが、いずれも認められないことは本訴において説示したとおりであるから、これらのことを理由として、原告広瀬に対し右建物部分の明渡を求める被告の反訴請求は理由がなく、はた原告近藤が原告広瀬の内縁の夫として被告に対し同原告の有する右賃借権を援用しうるものであることも本訴説示のとおりであるから、原告近藤に対し右建物部分の明渡を求める被告の反訴請求もまた理由がなく、したがつて、被告の反訴請求はいずれも失当としてこれを棄却するべきである。

もつとも本件の如きにおいては、相当な立退料の支払いを条件として解約申入の正当事由を肯定することも甚だ妥当な解決であると考えられる。しかし当裁判所においてはこの点について再三合議を重ねてみたが、ついにその法律上の根拠について意見の一致をみることができなかつた。

よつて、本訴の訴訟費用の負担につき民訴第八九条、第九二条を、反訴の訴訟費用の負担につき同法第八九条を適用し、なお主文第二項につき仮執行の宣言をつけないことを相当と認め主文のとおり判決する。

(裁判官 柳川真佐夫 斎藤次郎 海老塚和衛)

目録

東京都中央区新富町三丁目七番地二

家屋番号同町二九番

一、鉄筋コンクリート造陸屋根四階建住家一棟

建坪 八三坪二合九勺

二階 八二坪八合五勺

三階 八二坪八合五勺

四階 八二坪八合五勺

屋階 一一坪六合六勺五才

の建物のうち、

二階二八号室約三坪の右建物部分。

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